ぐり茶誕生の歴史
ぐり茶は1930年代生まれ
ぐり茶の誕生の歴史は他の日本茶と比べると近代のお茶です。
ソヴィエト連邦(現ロシア)へ輸出を進めるため、現地の嗜好に合わせた製茶技術の開発が行われたのが始まりです。
※当時のソヴィエト連邦では、中国から輸入されている釜炒り製法の玉緑茶(現地ではガンパウダーと呼ばれている)が人気でした。
日本緑茶の輸出のはじまり
日本茶輸出は明治維新頃から
茶の輸出の歴史はNHKの大河ドラマ、竜馬伝「坂本竜馬」に登場する大浦慶(おおうら けい 1828~1884)から始まりだと聞いています。
この大浦慶は日本茶を初めて世界に輸出した人物です。
その後日本茶はイギリスやアラビアにも輸出されるようになり、慶は若干30代にして日本茶貿易商として莫大な富みを得ました。
そして明治維新後、輸出商社も増えさらに日本茶の輸出量が増えます。
日本茶輸出の衰退
新たな市場開拓へ
しかし第一次世界大戦前後から米国市場にインド・セイロン紅茶が安く入ってきたことや、日本茶には木茎が多いというような品質低下が重なって次第に評判が落ちてきました。
そんな時、緑茶にはビタミンCが大量に含まれているという研究結果が三浦政太郎によって発表されました。1924年(大正13年)のことである。
いざ、市場奪回へと茶業関係者は意気込んだけれど、米国政府が行った追認試験で疑問が出されて、すっかり意気消沈してしまった。
これは実験に使用した素材に問題があったともいいます。
そこであらたな市場開拓への模索が始まります。
日本茶のビタミンCを売りに
寒い国ではビタミンCを摂取することが重要
1930年ころ、ソ連は国民にとって必須の茶(ビタミンCを摂取するため)を輸入するために日本に接触してきた。
そのころのソ連における日本茶は、中国茶(釜炒り製玉緑茶)に混ぜて利用されていたらしい。
いっそのことソ連が好む中国茶タイプを日本でも生産したらどうか、ということでソ連側担当者のアドバイスを受けながら、まさにソ連の嗜好にあわせた製茶技術の開発が行われました。
ぐり茶の誕生
釜炒り製から蒸し製へ
釜炒りであった中国茶と外観がよく似ていて、しかも苦味がなどを減少させる為に、従来の茶よりも蒸し時間を長くし、釜炒り茶のように見える丸い形に仕上がるようにしました。
それに合わせて茶業組合中央会議所が名称を募集した結果「玉緑茶」という名前が誕生しました。
蒸し製玉緑茶の誕生です。
名称の佳作には勾玉茶、丸茶、日之丸茶、富士茶、などがあったといいます。
そして1950年代の北アフリカ向け輸出の為に、中国の釜炒り製玉緑茶(ガンパウダー)に対抗して、ヨンコン茶を静岡や三重で製造して静岡市内の輸出商社が北アフリカ(モロッコ)へ輸出しました。
北アフリカ(モロッコ)は砂漠でビタミンCの補充が出来なかったので、短期的だったが日本茶が北アフリカ(モロッコ)に輸出されていました。
「ぐり茶」という言葉の誕生
「蒸し製玉緑茶」では言いにくい
1960年代前後、蒸し製玉緑茶の輸出が縮小するにつれ茶業界が国内で売り出そうとした時期に伊豆の弊社が取り扱ったのがはじまりです。
伊豆・伊東は温泉地として関東圏を中心に多くの観光客が訪れています。
そのお客様に「蒸し製玉緑茶」は言いずらい。
形がぐりっとしているから「ぐり茶」と呼び販売したのがこの名の誕生といわれています。
“Guricha or Guri-tea” is named from its shape similar to “guri” which represents the pattern of elaborately-coated red lacquer ware, or the whirlpool-like arabesque design. The official name of the product is steamed rounded green tea.